私と東北関東大震災(2011年東北地方太平洋沖地震)

拝啓皆様、お元気ですか。私は元気です。
東京23区に住む私は被災した訳ではなく、大したことが書ける訳ではありませんが、忘れて風化してしまわないうちに、ありのままを書いて残しておきたいと思います。

2011年3月11日、私が揺れを感じたのは、東京都港区赤坂のとあるビルの7階にある、職場のトイレの個室の中でした。
いきなり汚い話で恐縮ですが、なかなか治まらない揺れに異常を感じて、急いでお尻を拭き、ズボンを上げて、個室から飛び出しました。

同じく個室から飛び出した同僚と顔を見合わせて「これはやばい」と言葉を交わし、トイレを出ると、既にオフィスのドアは開け放たれ、皆が皆、一様に大きな揺れに恐れや戸惑いを感じているのが目に入ってきました。会議室で会議中だった人たちも、慌てて出てきました。

揺れは、これまで感じたことの無い大きなものでした。立っていられないほどでは有りませんでしたが、あちこちで物が落ちる音がしました。そして、なかなか治まる気配が有りませんでした。このままビルが倒壊して死ぬかも、などという思いが頭を過ります。実際、立っていられるくらいの揺れなら、そのような心配は必要ないのですが、充分そんな理性を吹っ飛ばしてしまうくらいの揺れです。

永遠とも感じられるほどの長い時間の後、揺れが治まると、ひとまず自分の席に戻りました。一体今のはなんだったのか。単に「地震」と一言では片付けられない、生まれて始めての経験。ほどなくして、「震源地は宮城」「マグニチュード...!?」といった声が上がります(すみません数値は正確には覚えていません)。震源地は遥か離れた東北地方。それなのに関東で、この東京で、これだけの揺れを感じたということで、事態の深刻さを嫌というほど思い知らされます。

PC に常駐している TweetDeck には、次々と情報が飛び込んできます。仙台駅の様子を伝える画像や、あちこちで発令される津波警報の情報。家族の安否を気遣ったり、デマや悪ふざけも飛び交って(そういうのはかなり少なかったですが)、タイムラインに恐怖と不安が渦巻いていました。

そうこうしている間にも、余震は続きます。直後は、余震と呼ぶにはあまりにも大きい揺れを感じ、もっと大きいのが来るのでは、という不安を煽りました。しかしその思いは良い意味で裏切られ、次第に揺れは小さくなって行きました。

何よりもまず心配したのが、家族の安否です。携帯は使い物になりませんでした。PC から嫁と母にメールしました。なかなか返事が返ってきません。

ワンセグというのは、まさに地震の多い日本の為に、必要であるからこそ産まれた技術なのだなぁと思いました。オフィスの最大の情報源が、ワンセグでした。私も次に購入するなら、ワンセグ付きのスマートフォンにしようと思いました。しかしそれも、Ustream でテレビ放送を中継するユーザーが出てくるまでの間でしたが。

それにしても、テレビは被害の大きい東北の情報ばかりを繰り返し流します。津波に飲まれる街、流される車、船。地震の規模の大きさを思い知らされるのですが、いやしかし、僕らが欲しい情報はそれではありません。今いるこの東京が、いったいどのような状況なのか、家族のいる地域はどうなのか、それを知って安心したかったのですが、ただただ、不安を煽られるだけでした。

安否が最初に確認できたのは長男でした。長男が通う小学校の緊急連絡用メールアドレスから、「児童は全員無事」とのメールが届きました。

一般回線が使えるということで、オフィスの電話を使いました。嫁の PHS、保育園へかけましたが、繋がりません。何度目かのトライで、実家に繋がり父が出ました。かなり興奮した様子で、洗車中に揺れに出くわしたこと、母は出かけていること、弟は仕事に行っていることを教えてもらいました。最後に「まぁ、大丈夫だろう。」と、根拠の無い言葉をもらって、少し元気づけられました。

次に安否の確認ができたのは、弟でした。「大丈夫?」といった旨のメールをもらいました。父と連絡が取れたこと、母や嫁とは取れないこと、長男は無事と諸々の事を書いて、「まぁ、大丈夫だろう。」と、最後に父の言葉を借りて返信しました。

ほどなくして母からもメールが来ました。「新橋から歩いている。」と。60を超えた母に、新橋から実家のある品川までは厳しい距離でしたが、とにかく無事なようでホッとしました。弟に書いたのとほぼ同様の内容を返信しました。

そう、この時点で東京の交通網は完全にストップしていました。社長の判断で本日の業務は終了、帰って良いよということになっていましたが、帰るに帰れない社員がほとんどでした。幸い、私は Google さんに聞いてみたところ、徒歩でも1時間45分ほどで帰り着けるとの事だったのですが、とにかく、家族全員の安否が確認できてから帰ろうと決めていました。

何度も嫁の PHS に電話してみますが、一向に繋がる気配がありません。保育園も同様でした。本当に必要な人たちの為に無駄に回線を使わないようにとネットでは流れていましたが、そんなこと構っていられません。僕に取ってはこれは必要なことなのですから。

気付けばもう、時計は17時半を回っていました。本来であればかみさんも業務を終了し、子どもたちを保育園に迎えに行く時間です。ふと、「もう家に帰っているのかも」と思い、自宅に電話しました。嫁が出ました。PHS は電池が切れて今充電中でメールは見ていない、長女次男は引き取って一緒にいる、長男は父が迎えに行ってくれて今実家にいるとのことでした。とにかくホッとしました。津波や大きな余震が心配なので、自宅マンションよりも高台にある実家の方が安全だろうと、実家へ身を寄せるように言いました(自宅と実家は歩いて10分ほどです)。

さて、家族の安否の確認が取れたということで、帰ることにします。電車はどうやら、本日中の復旧は難しいとのことでしたから、歩いて帰ります。幸い先に書いた通り、通常なら1時間45分ほどで帰り着く距離ですから、大したこと有りません。帰れずオフィスに宿泊決定の社員たちに申し訳なく思いつつ、オフィスを後にしました。18時ちょっと前くらいでした。地震発生から、3時間以上が経過していました。

赤坂界隈は、それほど人通りが多いということも無く、すいすいと歩くことができました。人が劇的に多くなったのは、虎ノ門辺りでしたね。歩道を人が埋め尽くして、思うように進めなくなりました。人の流れに乗るしか有りません。自分のペースで歩けなくなりました。

半分ほど歩いたところで、ピンチ。トイレに行きたくなりました。オフィスを出る前にトイレは済ませてきたのに、と思いつつ、とりあえず行けるところまで行くことにします。途中、何度もコンビニを覗いてみますが、既にトイレに長蛇の列だったり、「この時間帯はトイレの貸し出しをしておりません」と貼り紙が有ったり、店舗が小さくてそもそもトイレが見当たらなかったり、なかなかトイレに出会うことができません。

このまま家まで我慢して歩くしか無いのかと、かなり切羽詰まった状態で思っていると、泉岳寺の駅に立て看板が有るのを発見しました。「電車は止まっていますが、トイレは使用できます。」神様に出会った気分でした。

用を済ませてまた人の流れに乗りますが、自分のペースで歩けず、思った以上に時間がかかっています。2時間ほど経過したところ、流石に疲れたので、コンビニで飲み物と何か軽食を買って、ちょっと休憩することにしました。

コンビニに入ってみると、弁当/パン類はすっからかんでした。お菓子類も半分ほどが消えていました。飲み物は潤沢に有りましたが、仕方が無いのでマネケンの小倉抹茶ワッフルとスタバのチルドコーヒーを手に取り、レジに並びます。レジはそれほど大混雑という訳でもなく、店員の方がてきぱきと仕事をこなしていました。後から入ってきた部活を終えたと思われるジャージ姿の学生たちが、「うわっ、なんもねぇ!」と言っていました。

会計を終えると、店の外に出て、人通りの邪魔にならない場所を探し、ガードレールに腰掛けました。しかし歩いている最中は分からなかったのですが、かなり冷え込んできています。手袋を外し、ワッフルをぱくつきながら「休憩中」などと FourSquare でセブンイレブンにチェックインしますが、あっという間に手がかじかみ、全身が冷えてしまいました。慌てて残りのワッフルを口の中にねじ込み、「寒い休憩終了」と Twitter に呟いて、再び手袋をしてすぐに歩き出しました(飲み物も温かい物にすれば良かったと後悔)。

道行く人は歩道に収まりきらず、車道にまで溢れています。たまに混雑の様子や東京タワーを写真におさめたりしている人もいましたが、基本的にはみな、黙々と歩いていました。押したりもせず、慌てるでも無く、ただ、黙々と。ヘルメットをかぶり、防災セットらしき小さなリュックを背負って歩いている人が何人もいました。会社からの支給なんでしょうかね。

車道は大渋滞でした。ほとんど動いていません。信号や横断歩道が無くても、反対側の歩道に歩いて渡れてしまうくらいです。たまにクラクションが鳴ったりしていましたが、混乱している様子は見られませんでした。こちらも歩行者と同様に黙々と並んでいます。車道に歩行者が溢れ、車線を一つ塞いでしまうような形になっていましたが、そもそも駐車車両などあって実質使えない車線であり、特に混乱を起こすことは有りませんでした。たまに原付やバイク、自転車などが第一車線を走ってきましたが、これも特に怒号が飛ぶようなこともなく、お互い黙々とすれ違っていました。

面白かったのは、この事態にもかかわらずジョギングしている人がちらほらいたこと。普段は通らないであろう渋滞車両の隙間を縫って、すいすいと走って行きます。なにもこんな時にと思いましたが、なにかその飄々とした姿が滑稽に見えて、思わず笑ってしまいました。

そんなこんなで実家に辿り着いたのは、20時45分頃でした。オフィスを出発してから、2時間半ほどが経過していました。家族には特に変わったところはなく、いつも通りだったことでホッとしました。母親の準備してくれた夕食を平らげると、嫁と相談し、自宅マンションに引き揚げることにしました。というのも、どうやら大きな余震はもうなさそうだという勝手な判断と、何より、翌日に長女の卒園式を控えていたからです。この時点で、保育園からは「予定通り決行する」と聞かされていました。卒園式は9時半集合です。準備等考えると、自宅で寝るのが一番との判断でした。

自宅に戻ると、嫁に聞かされていた通り、リビングの棚や台所など、崩れて物が散乱していました。私は子どもたち3人を風呂に入れた後、疲れてすぐ眠ってしまったのですが、嫁は3時頃までかかって片付けをしていたようです。感謝。

夜は、嫁も子どもたちもぐっすりだったようですが、私は何度か余震で目を覚ましました。自宅はマンションの8階ですから、かなりの揺れを感じることもありました。普段、地震で夜中に目を覚ますことなど無いのですが、どこか不安を感じていたからかもしれません。でもまぁ、基本的にはしっかり睡眠を取ることができました。

朝起きると結局、卒園式は延期となりました。区の保育課よりお達しが有ったようです。また、その日に予定されていた長男の塾、長女のクラス有志による食事会、長男の小学校のクラス有志による親睦会も中止もしくは延期となりました。ということで、土曜日は家族で一日、ほとんど外にも出ず、のんびりと過ごしました。

日曜日には、僕の所属するバレーボールチームはとある大会に参加予定でしたが、散々迷った挙げ句、参加しない旨を仲間に連絡することにしました。とほぼ同時に、仲間からチームとして棄権する旨のメールが届きました。勇気のある決断に感謝しました。「家族と離れるのはよろしくない」と思ったんですが、それって単に、私自身が一人ぼっちになってしまうのが不安だったのだなぁと、後で思いました。この日遊びにくる予定だった長男の友達も、色々と不安なので行けないと親御さんから連絡がありました。というわけで、日曜日も土曜日と同様、のんびり過ごしました。

とは言えこの2日間、色々と不安にかられ、朝から晩までちょくちょくパソコンの前に座って、情報収集をしていました。そんなに新しい情報が出てくる訳無いんですが、とにかく少しでも情報を得て、安心できる材料を探したかったんですね。結局、完全に安心なんてできるわけないのに。

のんびりした週末が明けると、明日からまた仕事が始まります。計画停電が4月まで続くという話ですし、被災したとは言い難い東京においても、完全に日常を取り戻すにはまだまだ時間がかかりそうです。あらゆる様々な種類の情報が錯綜したりして、何をどうすれば良いのか迷うことしきりですが、しっかり判断して、間違わないようにしたいと思います。個人がやれることなんて限られています。身近な人を守るくらいしかできないんですから。

以上